昭和45年03月28日 朝の御理解



 御理解 第70節
 「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」

 道理に合う信心をせねばならぬ。道理に合う生き方をせねばならぬ。道理に合う考え方思い方をせねばならんと。「信心する者は何事にも信心になれよ」と仰せられますから、信心させて頂く者の。ね。考え方物の見方道理に合う在り方に成らねば成りません。 其れには先ず、人間は万物の霊長であると云う自覚が大切です。ね。人間は万物の霊長で有ると云う自覚が先ず出来なければ成りません。ね。
 教祖様は此処の所を、それこそ噛んで含める様に、様々な道理を説いておって下さいます分けですね。ですからその道理を、体得しなければ成らない。教祖様はこう云う風にも教えて居られますですね。「金神様は叱らっしゃるものじゃ無いと云う事が分かったで、まぁご同様に信心して、人じゃから欠伸が付くけれども、信心に欠伸の付かぬ様にして我が事は二番にして、人の事を先に助ける様にお願いしなされ。そうすると自分の事は神様が良き様にして下さる」と。ね。
 第一、ね。金神様は叱らっしゃるものじゃ無いと云う事が分かったと。是れなんかはもう、人間万物の霊長としての、人間の考えて考えてね。すぐ分かる事なんだけれども、いわゆるあの金神遊行説です。ね。金神様があちらに御座るからそれを避けて通るとか、回って通るとか封じて通るとかと、云う様な事はもう愈々非道理であると云う事が分かります。道理に合わない事が分かります。ね。金神遊行説と云うのは、まぁ支那辺りから来たものだと思いますけれどね。今でもやはり根強いですね。金神遊行と云う事は。
 第一、日の良し悪しを見たり普請をするのになんですかね。家相がいいの良いの悪いのと云う事やら、やっぱり金神遊行説から来たものでしょうね。もうどんなに考えたって可笑しな話。ねけれども其れを誠しやかに、またその言う人がそれに一つの理屈を付けて、まぁ云うなら学問を、それにその学問を持ってですね。云うならまぁそう云う学問が有りますよね。まぁ易学なんかもやっぱりそうです。ね。
 けれども是れは本当を言うたら、もう愚にも付かない事なんだけれどもですね。私共がそう云う風にそう縛られて、最近ではねあのうお墓の相まで申しますね。そりゃまぁその無いとは言えないでしょう。けれどもね。人間万物の霊長としての自覚に立ってです。ね。いわゆる金神様は叱らっしゃるものじゃないと感じたら、分かったらね。いわゆる問題ではない事に成るのです。
 いやむしろ天地に墨金を引く様な事は、天地に対するご無礼とさえ仰って居られますからね。金神様はもうそれこそ百何十年も前にね。金神様は叱らっしゃるものじゃ無いと喝破されたと云う事は、もう大変な事だと思うんですよね。長年例えば着物一つ裁たせてもらうでも、日が良い悪いをいい、もう旅立ちでもする時には尚更の事。ね。結婚いわば葬祭と言った様な事も。ね。
 今でもそうでしょうが。死に時が悪いと今日は友引じゃから一日延ばさなんならんと言った様な(笑)もう愚にも愚にも付かない事なんですけれど。それを信じて長年それそう云う事を言い、昔から言うて来た事じゃけんやっぱせにゃいけんと言った様にしてする。それがね、それで良かりゃあいいけれども。それが天地に対してご無礼になると云う事。ね。その辺を私はすっきり頂けれる信心がまず必要です。
 金光様の御信心頂いたら、それは天地の道理が分かるからです。ね。もちろん天地の御恩徳が分かり、天地の道理が分かるからだからお道では、金光教の信心を、迷信打破の信心とこう言う分けですね。はぁ何処何処の大学を出た、自分は文化人だとあのその、自称しておる人達がです、さぁ息子が嫁を呼、ちゅうたら黄道吉日を選ぼうとするではないか。ほいでまぁ新婚電車で、結婚式をしたら。
 もうまるっきりトコロテンを押したる、ごたる事じゃった。もう次から次に、つかえてずうっと、そのもう(笑)結婚式がその黄道吉日の日が、そんなに多いと言うわけ。ね。はぁもう新婚列車なんかはもう、もうその日はもうその汽車だけはもう、新婚さんばっかりだ。同じ日にするからです。黄道吉日だから、わざわざ悪い日にしようと云う事、やらんでもあたり前にです。ね。
 万事都合の良い様に都合の、例えば家を建てるなら。ね。「使い勝手の良いのが良い家相じゃ」と云う程の心が開けて来なければいけん。ね。人間って本当に弱いもんですよね。それは万物の霊長としての自覚がない。天地の道理が分からんからその様な事を言うのです。だから金光様の御信心をさして頂いたら。まず万物の霊長としての自覚が出来て来る。そこで万物の霊長としての、値打ちねぇ、自覚だけじゃいかんから今度はその値打ちを作って行く事の為に信心が必要に成って来る。ね。
 道理が分かるから道理にあう生活をしなければ。ね。ばからしく成って来る。いわゆるそれを天地の法則とも申します。ね。法則と云う物が分かったら法則に従っていかなければいけない事が分かって参ります。ね。天地の道理って云う事はそう云う事。道理、万物を見て道理にあう信心をせよ。其処ん所を教祖様はですね。いわゆる「金神様は叱らっしゃるものじゃない。」と喝破された。素晴らしいこの事だけでも。
 金光教は素晴らしいと思うですね。ところが金光様の信心しとったっちゃ、やっぱそれに引っかかる人が有るんですよ。おかしな話、結局どの位天地の道理の勉強をしよるかて云う事が分かります。ね。また道理にあう生活をして行きよるかと云う事が分かります。次に言って居られます。人間はね、やはり欠伸が出ると欠伸、疲れ、自分は疲れとらんと思うけども、欠伸が出る時にやはり。その疲れを感じて居る時です。
 けれども信心にはです欠伸の付かぬ様な信心をせよと仰って居られます。疲れを知らん信心だから是はもう元気まぎらしてやると云うだけではいけません様ですね。やはり信心の何たるかと云う事が段々分かって来れば来る程、教えを頂く事がただ有難うして有難うして。昨日ある人が言って居りました。ね。日本全国回ったってです、合楽の様に例えば朝のこの御理解をですね。そのうまずあかずようあれだけ説かれるのであり、又それを聞かせて頂く事がです。
 ほりゃ日本中どこ回ったってこげん所は無かっちゅう。私も又こげな話をせんならんとは一つも思いよらんです。もうそれこそ私自身がお話なら楽しゅうてたまらんとです。今日はどう云う御理解を頂くじゃろうかと思って。なら皆さんも朝の御理解によくせきでなからなきゃ、眠る人は無いでしょうと云う程に、斬新なんですよね。此処の御理解は、ですからその御理解が、日々の修行の上に生活の上に現わされて行く。
 其処からね成る程、成る程と云う体験が生まれて来て。有難う成って来るとにかく例えばどんなに疲れて居っても、眠かっても自分の好きな事する時にはバチっと目が覚めるでしょうが。様にですね欠伸の出るだんじゃないと云う事に迄成って来る。だから信心に欠伸の付かぬ様な信心をしてしかもです。しかも自分の事より人の事を先に願うと云う心になれば、自分の事は神様がちゃんとおかげは下さると言うて居られます。
 神様が良き様にして下さるとも。まぁこの辺の事に成って参りますと素晴らしいですね。道理ですもん。ね。例えば子供が親におやつをねだります。ちゃおやつちょうだいおやつまだ三時もないとにまだ早過ぎる。と言われるとまぁあぁおやつをねだると致します。ね。もうさっきから頂いてからまた食べるのっち言うてから、まぁあんまりやかましゅう言うから、うるさいからやるとはやるけれどもですね。
 怒られながらもらう様なおやつじゃぁいけないです。ね。例えば親がさぁもう三時のおやつ、おやつの時間早う、早うおいでと。ね。言われる時には親も喜んでやりよるし、またおやつの事なんかもう忘れてしもうて。例えば親の手伝いをして居るとするとね。又は人が兄弟が何人も居って、あぁひとつ自分が足りなかったと云うなら、もうよか僕はもう僕はよかとこう言うならですね。よけいやりたいのが親心。
 これが道理です、もう人んとまで取ってから(笑)両方の手に持ってから。この人ばっかりは欲張ってっち言うてから怒るでしょう。ね。もう僕はよかっち言うなら、あぁまぁそれこそ押さえ付けてんやるごたる。それが親心それが道理なんです。おかげでも同じ事です。てんでおかげに願う事だけはこう並べ立てちからですね。言う事聞かんな云うなら、そりゃ並び立てちから言う、やかましゅう言うちから。
 地団駄踏むごつして頼むけん、まぁ下さるかもしれんけどもそう云うおかげではいけない。「人の事を先に頼むような心になれ」。是はもう本当に道理です。是はまぁ私を見て下さるが一番いいですもう本当に毎日長い長い御祈念をするけれどもね。いわば自分ところの親の事子の事家内の事と。例えば兄弟の事とまぁ願う願うた事は有りません。ね。どううぞどうぞ、もう教会自身がおかげ頂かなければ人の面子が悪い。
 教会自身がおかげ頂いとかなければ。神様その神様の顔に泥を塗るような事でございますから。まず私共におかげを頂かせて下さい、といったような願い方をする人が有りますよね。是は教会じゃなくても神様はそんな事で、顔を汚しなさる様なつまらん顔じゃなか。ね。それでもね結構におかげを受けて居るでしょうが。ね。家族の者でもお取次ぎを頂きに願いに来れば、お取次ぎさせてもらいます願います。ね。
 ですからねまぁ実は、まぁ理屈を言えばそうなんですけれども、実際は中は中々ね、出来ない事です。自分が苦しかりゃあもう自分の苦しい事が実感ですから。ね。自分の心の中に実感する事を先ず神様に申し述べたり、願ったり致しますけれどもです。其処がですね。人間は万物の霊長であるから、万物を見ての道理にあう信心をさせて頂いて居りますとです。ね。それが何の抵抗もない、もう当たり前の事としてですね。
 いうならば段々神心が強う成る、親切が強う成るとでも申しましょうかね。本気で研かせてもらいよる本気で改まらせて頂きよるとです、物の見方が変わって来るんです、考え方がいわゆる本当の意味においての和賀心が育って来るんです。ね。例えばですよ、自分の家庭にです。なら困った痛い痒いと言った様な事が起こって参りましょうかな。困った事が起こって参りましょうか。処がねこの和賀心の和が、和と云う心だけでも育って参りますとね。そんな事は全然問題じゃ無く成って来るんです。不思議に。ね。
 和の心には問題が無くなると、それが本当の和だと、だから問題をそこに問題としておる間はね。自分の心にいかに和の心が無いかと云う事を知らなきゃいけません。そして是じゃ成る程おかげが受けられんと、悟らにゃいけません確かにそうですよ。ね。和の心が本当に出来ますとね。問題は無くなるですあっても水、水に流した様にすっきりとするもんです。だから昔から夫婦喧嘩は犬も食わんと言われるのはそれです。
 てんでやりやりやりよるかと思いよると、あくる日はケロっと仲が良うなった。一晩寝たらそうです。和してるからです、和と云うのはそんなもんです。ですから其処に其処に根が残るとか腹が立つとか、はがゆいとか、と云う様な事がですね。心に感じられてならんなら本当に、その和の心が無い証拠だと悟らせてもろうて、自分を見極める、自分を掘り下げるとか改めると云う事に精進致しますと。
 はぁ本当に問題じゃ無かったんだなと分かります。そう云う心がおかげを受ける事になるのです。俺の心には問題が無くなる。ね。しかし本当にですね、信心っちゃ有り難いなと思いますよ。(感動して涙声になられる)私は今日はね。皆さんに大体こう云う事を聞いてもらおうと思ったんですよ。ね。信心のその味わいと言うかね、もうなんとも言えん信心っちゃ有り難いなぁと云う事。ね。
 そう云う私は味わいに、触れての信心。だからとても眠気は付かん。欠伸は出らんと云う事になるです。ね。先日の13日会の時に、佐田さんが発表して居られましたですね。まぁ一番下の三人兄弟の中に真ん中娘さんですがこう、富美恵さんっち言いますけど。ね。朝がそのパパがお婆ちゃんに何か話して居ったと。そのなんて言うたかは知らないけれど、お父さん何ちあなた言いなさったですか。
 富美恵がそれこそあんなに感動しておるが何を言いなさった、それは何ち言うたじゃろうかっち。(笑)言う事もどげん言うたかも覚えないけども子供の耳に入って来たその事がです。ね。自分は信心の家に生まれて幸せだったと思うた、今まではね、そりゃま親子三人でこうして合楽、合楽っちて来られますから子供達が不自由する事があるから。あげん参らんでも良かろうと言った様な不満があったけども是からは。ね。
 富美恵だけは、その事は思わんと云う様な事を話したと云う。信心の家に生まれて。ね。いよいよ本当に幸せを感じたとこう云う話を、此処で誰かになさりよっげな、大きなおいさみを頂かれたっち。信心っちゃまぁなんちゅう有り難い事じゃろうかと、いう味わいをですね感じ取った時、神様がいかに感動なさって居られるかと云う事が分かるでしょう。ね。佐田さんがお婆ちゃんに言うておられた事。
 それが子供の心にその様に響いた。おそらく。ね。わざわざこうこげん言うたらどうのこうのと云うのじゃなくてです。自ずと出て来るその言葉の中にです、信心が溢れておったんですよきっと。ね。信心頂いておると云う事は有り難いなと。信心の一家をあげて信心の家庭であると云う事がです、有り難いと云うその味わいを本当に味わわせて頂けれるまでの信心に成長しなければ駄目。おかげ頂くけん参りよると。と。
 おかげ頂かにゃいけん、あんたもさぁ参らんの、と言った様な程度の所じゃなくてです。ね。そういう間はやはりまだ信心に欠伸が出ます。けれどもね、其処までなって参りますとね。欠伸どころじゃありません。有難うして有難うしてと云う事になるのです。昨日ねある方が夕方でした、お参りして来て丁度一年前に、ある本業の方ではなくてまぁ他にこう云う、商売があるからと云うのでお許しを頂いて店を始めた。
 所が思うた様に儲からん訳です。前この頃からもその大体締めくくっていた所が、損はしよらんけれども、ばさらか儲かりよらんとこう云う訳。だからもう少しそのまぁ嫌気がさして来た。でお伺いさして息子さんが怪我をして今入院をしております。それですからその手も足ら無く成ったので辞めさせて頂きたいとこう思うがと、所がまだまだ今のままで続けられて行ったら良いと云う事であった。
 儲かりもせんとに続けて行かにゃんちゅう事は、まぁ商売人としては儲かると云う事がね。やっぱり願いですから、手もない事じゃから、また二度目のお伺いに昨日は来て居られる訳なんですよ。ね。そしたら神様から私が頂くとがね。あのクリスマスのあの「サンタクロース」ですね。サンタクロースが大きな袋を担いでるでしょう。ね。それはこうこうやってこっちの方ばこうこうで手繰りよる訳。
 だから後ろの方はもういっちょん少ししか入っとらん。を手繰りよる。ね。だから、まぁ本当は信心の味わいと云うものを分かってないのだから、まぁ此処ん所では一つそんならそげん採算が取れんごと有るならば。辞めさせて頂く様にお願いをしよう。と私は申しました。大変喜んでですねもう先生本当に、まぁその、そこはですねもう神様任せになっときさえすりゃおかげ頂くちゅう事を。
 もう二十年間の信心でもう、もういやっちゅう程体験しておかげ受けておる家なんですからね、そのう大体は親先生の言わっしゃる通りしにゃきゃえずか訳ですよ。はぁ子供の結婚でん何でん。親先生のお許しを頂かずした結婚は今でも困り抜いとるんです。ですから知ってるから、どうかいこうかいどうしてでんその、その私にまぁ辞めても良かっち言われなければ、まぁ恐いから自分勝手に辞めきらん訳です。
 まぁその程度ですどうでしょうねぇ。成る程例えばんなら神様がして良い、しないと言うて下さったお店だから愈々いかん時には神様が辞めろと仰ろうから其れ迄はね。例え損したっちゃさせて頂くと云う気になる、其処にね信心の味わいと云うものは出て来るとですよ。どうでしょう皆さん、ね。所謂もらうどうでもこうでもと言うてもらうおかげよりかね、もらわずに所謂プレゼントで頂いたつの方が大体有り難いとです。ね。
 サンタクロースが大きな袋に一杯何か詰めて、まぁ時期が来たら持って来てやろうと思いよるとにですね、それを今度はすごくごとしてから、こちらに引っ張るもんですから、袋の中は空になってしまう。ね。神様がのし付けて下さろうする様なおかげをよう頂ききらんから。信心の味わいが何時迄で経っても出てこんのです。ね。そげん言うといてからです、ね。あぁして子供が入院して居りますけれども本当に。
 まぁおかげを頂いて一つも事が無い様に、おかげ頂き是れだけでも不思議なおかげで、御座いますちゅうわけなんです。そげんあんたおかげ頂きよるちゃないな、子供の怪我が、怪我って云うのは骨折してるんですねぇ。単車でこちらの方が自動車へぶつけた、ね。処が先生本当おかげ頂いてから誰々さんが、そのう保険の外交にみえましてね。もううかっついっぱいかかっとるとを、もうそれこそ泣くごと、言いなさるもんじゃから。まぁ三ヶ月ばっかりかけたならば。ね。
 辞めさせてもらおうと思って、かたらせて頂きましたら。丁度三ヶ月目に怪我した。だから先生、あの入って来る保険が3つあるその人んと。こりゃもうお願いもせんのにくだっとりましたばってん丁度三ヶ月。だから辞めとりゃぁもうそれ切りじゃったろうばってんですね、だからあの人はあなた病院に入院しながら高級とりのごたる事で御座いますっちこう。ほうりゃあんたそんな方がおかげじゃんねっち私が言うた(笑)ね。
 けれどもお願いをしてから保険にかかっとらんもんじゃから、本当のおかげじゃなか事思うとる。何遍でも参って来よるばってん、その事はこっから先も言わんとじゃん。だから私この頃言う様にですね。本当にもう所謂この和賀心時代に突入した合楽が願わんでん頼まんでんおかげ頂けるごたる、その時代になって来たと、その気になりゃだから願わんで頂いた時には、いわば広大なおかげじゃない様な思い方をする所にです。
 おかげを軽う見る事になるんだと。ね。先日もおかげを軽う見なと云う事じゃったですねぇ。私は信心させて頂く者は恐いです。其処にきがおかげをおかげと見きらん、おかげをおかげと感じきらん。あん時やぁやぁ言うちからもうほんなこて泣くごと言わっしゃるかたったばってんちゃ。はぁありゃ神様があげん言うて頂いとったってちゅう気が付かん。その証拠にその事にはいわば本当の、おかげと思うとらんからその事に対するお礼すら言わん。ね。それでんそげん言いよる。
 はぁなんだそんな方があんたおかげじゃないのっち私が。ね。言うたっちゃまぁだ気が付かん。ね。こげな所がですね私は本当に道理にあう信心と云う事はね。例えばまぁちょっと難しゅうなりますね、そこら辺になると。ね。 私はどうでしょうかね、二十年前にああやって商売させて頂きながらもですね。もう愈々商売が行き詰まってしまっておる時に私は、今の私のおこんが六丁目に、今、今は本町町ですね、本町の6丁目に峰さんって云う酒屋さんが北京時代の酒屋友達である。
 私がお金を借りに行った事があって、まぁ私が大変難儀をしておる事を知られましてね。久留米の大きな酒屋さんだけが、五人アサヒ屋の裏で大きな酒問屋を始められました。其処でその其処のまぁ支配人にと云うのが私にまぁ兄弟で話されてから。大坪さんなら良かばい商売にも慣れちゃるし酒の事にも慣れちゃるし、どうでんこうでん困ってもあるごたるじゃけんで、いっちょ大坪さんば推薦しよう。と云うて電話がかかってまいりましたから行きましたらその事でした。
 もうそれこそね自分の手に慣れた事ではありますし、もう飛びつく事思いました、また親切有り難いと思いました。けれどもねもうその頃は信心が有難うして有難うしてこたえん事なっとる時分ですもんですから。もう本当にそれこそ折角の御親切ですけれどもと言うてお断りした。もう皆さんの方がたまがってしもうちから、あんたばっかりはっち、今でもみえるとそん。
 そん時の話があるほんにあの時はあんたが酒屋の人にならもう、こげな事こげな方にはなっとなさらんじゃったですけんねっちから言われますがね。その辺の味わいと云うものがね。ただほんな目先の欲の事ばっかり言うてからそれに飛付く様な事では道理に合う信心は出来ません。神様のね御心におう合う信心。其処でですねそんなら、そんなら今日からはいっちょ自分の事はやめちから人の事ばっかり願おうと云うたのじゃいかんのですよ。ね。人の事が願わなければ居られない私に成らなければいけんのです。
 其処に信心の修行があります。いわゆる限りなく美しゅう成ろう限りなく美しく成りましょうと云った様な信心が必要なんです。ね。もう本当に赤の他人の誰かれの事でも、其処に難儀を見た時です、神様ぁっと其の人の事を祈ってやらなければ居られない心です。ね。人を押し退けちからでも自分が先に儲けだそうと言った様な心ではおかげにならん。本当の本当のおかげにならんです。ね。
 たらいの水を向こうに押すとこちらへ返って来るという理なんですよ。是は道理なんです。先ず人の方から先にと、こう向こうに押す様なもんですから。ね。実際はこちらの方に返って来る。ね。其処でんなら今日から人の事ば願おうだけじゃいかん、そう願わなおられない私になる事の為にね、ひとつ愈々和賀心学を身に付けて和賀心になる事を本気でね。取り組まなければいけないかと云う事が分かるでしょう。ね。
 まず今日はひとつ道理に合う、金光様の信心を目差して頂くなら、まず「金神様は叱らっしゃるもんじゃあない」と云う事をです。ね。あらゆる角度から眺めてみて、成る程そう云う事は迷信だなと、日本人にだけそげな迷信が有るはずはなか。アメリカ人もイギリス人もそげな事は言わん。ね。その事からを言うただけでもはっきりするのだけれど、人間っちゃ馬鹿んごたるよ。
 欲なもんだからね(笑)そんならよかっち言われると、理屈を立てて述べられるとほんなごつの事思う。そして天地に対して無礼すると云う事になるんです。ね。其処でですんなら私共が本当の人間は万物の霊長としての自覚を作って。ね。その自覚がね、そんなら霊長としての値打ちを作ろうと云う所に信心が有るのです。ね。人間の面被っとるだけ、もう犬やら猫やらと同じ事と云う様なですね。
 もう本当に最近テレビなんか見とるとそんな感じがしますよねぇ。節度がない。ね。人間が本当にだらしが無くなってしまった、それがもう人間だから当たり前の様に。それを人間らしい生き方なんて云ういう事言う人がある。馬鹿んごたる話。動物らしいその犬猫らしい生き方だ。ね。牛やら馬らと同じ事それこそ人面獣心。人間の面しとるだけ心は獣と同じ事。ね。そう云う汚い私共の心の中にそう云う内容がある。
 それをですね私共が本気に分からしてもろうてです、それに取り組んで改まって行くと云う事。ね。そこに教えがある。その教えを頂く喜びが楽しみがです、欠伸の出んで済むごたる信心が生まれてくる。ね。そしてですねそれこそ自分の事はあらお願いするとを忘れとったと云う位にです。人の事でいっぱい祈らせて頂けれる程しのね。信心が出来る様に成る時願わんでも頼まんでも神様の事が、こちらの事はええ様にして下さると仰るおかげが生まれて来る。
 それがねいうならばサンタクロースがプレゼントを贈って回るようにですね。もうこげな楽しい有り難い事は無いでしょう。自分でこうやって我情で集めた物よりかね。自分がもう思うてもいなかった様な素晴らしい物がね。こう贈られて来ると云う事の方がどの位有り難いか分からん。だからこそです、信心っちゃ有り難いなぁという事になるのです。信心の味わいは其処にあるのです。
 はぁ本当に一生懸命にお願いしたら、先日私はある教会であるよその総代さんのお話を聞いた。もうその人の話は一から十まで、なんか問題が起こると、ようしいっちょん今度は修行してお願いしてから、おかげ頂かにゃおかんっち云う生き方ばっかりじゃったです。だからそう云う生き方でおかげを受けたってね、つまらんのですよ。神様がびっくりしなさろうと思うて。ようし今度はいっちょおかげ頂かないけん、はぁもう神様が逃げ出しなさろうごたる感じがするとですよ。
 そればってん神様を追いかけちから、どうでんこうげんごうぐる事して頂いたおかげなんですよね。そう云うおかげ話をなさったんですけれども私合楽の人達、ちっとおかしかったろうと思うです、それを聞いて。皆さんもお聞きになさったでしょうか。ようし今度はちゅう事で、此の前はあの手で行ったけん今度はこの手で行くっちごたる風な信心をしておかげ頂くと云う様な事ではね。和賀心時代に繋がるおかげとは言えんのです。ね。一つ本気でね一つ、ね。和賀心学を愈々修める。
 私はこんなに言いよるけれどもですね、なら和賀心ってどげな心ですかっち聞いたっちゃ、返事の出来ん人が沢山ある。私は本当昨日あの椛目の内田さんがじゃん。土井の共励会で和賀心って事が問題に成りましたっち。だいだい和賀心っちゃぁ、ようく考えてみて分かっとる事して分かっとりませんって言うて、あぁそうかなぁと言いながらね。ある意味でがっかりするんですよ。
 けれどもこれは内田さんのごと信心しよってそうだから、こりゃぁほんに皆もそうじゃなかじゃろうか。分かったごたる顔はしとるばってん、ほんな事は分かっとらんとじゃ無かじゃろうかと思うてね。是れはまぁだまぁだ私の是れは教導が足りんのだと云う風に思いました。けれども例えば今日の御理解の中からです、ね。和賀心のなら和の字からいっちょ分かっていくという事をすればです。ね。
 教祖が仰る和賀心の和と云うのは、ね。問題が無くなる程しの心を和の心と云うのだと。ね。家庭の中でもです。だから内田さんに申しました。いざこざがあったっちゃね。ほら和賀心和賀心と言うたらもう問題がそれで無くなる位なおかげを頂く、其れが和よと言うてまぁ申しました事ですと。ね。今合楽で口を開けば和賀心。だから問題が此処にあってもです、和賀心和賀心と一人がこう、提起致しますとね。
 はっと云う事に成ったらもうその場で問題は消えるもんですよ。ね。そう云うねあのおかげを頂いて行く為にもっともっと本気でです。いやこれはわが、和と云うだけ、事だけでもまぁだ全部説明は足りない、まぁ自分で体験しなければ分かりません。ね。だから自分の信心から生まれて来る和。それをね一つ愈々本当なものにして行かなければならんと思うのです。其処から道理に合う信心。
 もう金光様の信心にはね、それこそもう世界中にですよ胸を張って私は金光様の信心が素晴らしいと云う事が言えれる信心だと云う事をですね。この一字からこのう、御理解七十節からだけでもですね。私はそれが言えれる内容を是は持っておると思うのですよね。ほりゃあもう世界中に様々な宗教がありますよね。けれどもどげん考えても道理に合わん信心が沢山なんです。ね。ですからそれにはまず私共が道理に合う信心をまず身に付けなければいけませんですね。
   どうぞ。